Otra célula del cerebro

気が向くままにだらだらと書いていきます。

死の壁/養老孟司 ~まじめに考えると、どんどんつらくなることもありますがね。。。~

バカの壁が面白かったので、次にこの本へ。

 

死というものの定義は、実は決められたものであったのを知り、なんか納得というかなんというか。

 

死というのは、こういう判断で決まるようです(三徴候)。

  1. 自発呼吸が止まる
  2. 心拍が止まる
  3. 瞳孔が開く

この3つで判断しているのですが、そこに脳死の定義がでてきたので難しいですねぇ。脳が止まったら、死亡???、心臓動いてるのに?となりますから。

それに、死亡と診断されてから、そのあとひげが伸びたりしたとかの話も聞きますし、一概に定義がしづらいところなんだろうと思います。

そういや、医師というのは、死亡判断をするので、人の治療をするだけでなく、大変な職業だなぁと思います。だからこそ、尊敬される立場・職業になっているのかな?と。

 

ただ、そういう職業だからこそ、人格者である方がなってほしいものです。成績がいいから、医者というのはなぁ。。。と思うことがあります。

人は変わっていくというのがありますし、仕事をする中で人格形成されていき、素晴らしい人になっていく人が多いのかも。ただ、激務で大変そうなイメージなので、人として破綻していきそうな感じがします。。。

 

死というものを怖いものなので、遠ざけていくと、また漠然と怖いというのが増幅されていき、バカの壁状態になるんでしょう。だからこそ、どこかのタイミングで一度死について考えてみたほうがいいのかもしれません。

ただ、死刑囚の執行において、法務大臣が躊躇するというのもわかる気がしますし、国によっては、複数人がボタンをおさないと刑が執行されないというのもありますし、死というものの重みというのを感じさせられます。

 

死と言うのは、怖いものなので、あんまり考えたくはないんですが、一度向き合ったことがあります。

昔、入院していたときに生か死かというところに自分がいると知らされたとき、ふっといろいろと考えました。死んだらどうなるんだろうとか、なんでこうなったんだろうとか様々なことを。

でも、目の前に死がきても、あんまり実感がなかったんです。不思議なことに。自覚症状が乏しく、痛い思いもあんまりなかったからかもしれませんが。。。でも、今思うと、気づいてないだけで自覚症状も多々でてたし、よくあんなに能天気にいられたなと思うこともあります。

そのとき、考えていた死というのは、自分は消えるんだなと。親が悲しむかな?くらいでしたねぇ。未来への希望がまだまだあったころだからこそ、そう思えれてたのかもしれません。

 

そういうのを思い出すと、あのときにどこか自分が変わったと思える転機だったのでは?と思います。

明日かならずくるとは限らない。だからこそ、一日をしっかり生きる。死んだときに満足だっていえるくらい充実した日々を送りたい。

こういうのを思うようになりましたねぇ。

 

なんか本とは違うことを書いてますね。。。

 

最期に、残った人に向けて本書で書いてあった言葉

今身内がなくなって悲嘆している人に「死んじゃったら仕方ないよ」なんていったら、殴られます。文句も言えません。しかし、長い目で見て、その死の経験を生かす生き方をすればよいのではないかと思うのです。

 それが意気の負ったものの課題です。そして生き残ったものの考え方一つで、そういう暮らしは出来るはずなのです。

 

~中略~

それが良かったか悪かったかを判断するのは、自分です。最終的にそれが良かったというふうに出来るのも自分だけです。だから「決まったことは仕方がない」と私はよく言います。それは何も流されて生きなさいといっているのではなく、そのくらいの気持ちでいれば、逆に大抵のことは実はうまくいくと思っているのです。

 

死の壁 (新潮新書)

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