Otra célula del cerebro

気が向くままにだらだらと書いていきます。

ケータイを持ったサル「人間らしさ」の崩壊/正高信男 ~むかしはよかったは、散々いわれたなぁ。。。~

NHK「歴史ヒストリア」で、家康が読書家で、そこで得られた知識をもとに天下取りや天下を治めたというのをやってました。

自分のおかれている状況を解決するのに、歴史から学ぶというのを見ると、昔から歴史から学ぶということの大切なことなのだと思わされます。なんか、いつか前に書いた気がするなぁ。。。忘れたな。

 

通勤しているときに、人間観察をしていると、大概4パターンに別れている気がします。

  • 寝てる人
  • 本を読んでる人
  • スマホやケータイをいじっている人
  • ぼーっとしてるか、考え事している人

この中で、一番多いのがスマホやケータイをいじっている人。まぁ、自分も本読んでるか、スマホ触ってるかのどちらかですからねぇ。

 

で、今回この本を読んでいて、うーん、と考えさせられました。

 公共空間に出ることを拒絶するーーーーすると、地べた座りや戸外で平気で飲食することができるのも合点がいく。あるいは電車内で平然と化粧をしたり、ケータイで会話ができるのも・・・・・・。

 生活空間をあえて私的な領域と公的な領域に区分するということは、人間が恣意的に両者を分割する努力を怠ると、その協会は曖昧化することをも意味しているのだ。その時、私たちは古くからの「なじみ」の深い者同士の、ぬるま湯のような心地よさにどっぷりと浸かった日常に明け暮れる快感に、強烈に魅惑されるのかもしれない。それは母親とのスキンシップに充足していた日々への郷愁と言ってもかまわないだろう。その系統的起源をニホンザルの母子に見ることができるのだ。

自分は、電車の中でケータイで電話はしないですが、電車の旅とかでてるときに、本を読みつつ飲み物飲んだりしますからねぇ。それをばっさり切らんでもと。。。

ケータイを触るようになって、人はどんどん公共性を失っている。そのことをいいたいのかもなぁ。

 

ケータイの話から、話がかわって、子離れできない母親の話にどんどん進んでいきます。結局、子どもにどんどん買い与える母親の話と話が進んでいきます。

 

いろいろと社会変化についていけなくて、昔はよかったといっているのが感想かなぁ。自分もいずれ、昔はよかったといっていそうな気がする。。。

なんか読んでもためになること少なかったかなぁ。

 

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)