Otra célula del cerebro

気が向くままにだらだらと書いていきます。

過去振り返ってみると、気になる選択肢は病気の治療場所ですかね。

自分の半生で選択というのはあったのかなぁ。。。

というのを振り返ると、1つ大きなのがありますね。成功的な内容なんかではなく、別の選択肢を選んでいたらどうなっていたんだろう?という疑問は残ってますが。。。自分自身にはわからないことですね。

 

大きな選択というのは、18歳のときになった大病の治療のこと。

あの当時、地元を離れ、愛知にいき、大学に入ったばかりの入学式前の健康診断で、発覚した縦隔腫瘍。すでに大きくなっており、ソフトボール大のサイズにまでなっていたようです。

その治療のため、大学を休学して、たった1か月くらい通学したのち、気づけば入院生活。といっても、最初の1か月は検査の嵐。

検査がおわって病気が確定してからの治療をすることになったときに、医者から2つの選択肢を言われました。

  1. このまま入院した病院で治療をする
  2. 地元の大学病院に転院して治療をする

このとき、自分が選択したのは1のこのまま入院した病院で治療をするでした。いま両親のことを考えると、迷惑かけたかなと思います。金銭的にもですが。。。

 

治療方針は、抗がん剤を3クールうったのち、小さくなっているかどうかを確認したのち、手術ないし、放射線治療というものでした。治療の効果はてきめんで、抗がん剤で急激に小さくなっていき、ソフトボール大のものがピンポン玉以下のサイズまでになりました。効果てきめんでありがたかったかなと。

そこまで小さくなっていいたら、手術をするのかと思ったら、血管が腫瘍にまとわりついているようで、手術が困難。さらに、だいぶ効果があったので放射線治療もする必要もない。

そこで、徹底的に腫瘍をたたいて再発がないようにしようという治療方針に。最後に徹底的にたたくということで、一番きつい抗がん剤の投入でした。事前にとっていた自己採血を戻したり、輸血をしながらの抗がん剤でした。クリーンルームに送り込まれるわと、今思うと結構やばい状況だったのかも。

「治療しているのか、それとも殺されかけているのか?」ということをあとで親から言われましたが、本人はつらいなぁ。。。と思っている程度のこと。

この抗がん剤の治療がおわったのち、血液が戻るのを確認したのちに退院。入院期間は約5か月超。その後、4か月くらい地元に帰ってのんびりと過ごし、運転免許をとったりしてのんびりしてました。ただただ、体力を回復させるのと、気持ちをのんびりにするために。

その後、次の年の3月から大学に戻り、大学2年目から大学1年生の授業を始めました。このおかげで、1年間の大学を休学。

 

この病院の治療のときの別の選択肢、地元の病院に転院していたら、治療方針が違っていたのかもしれません。だいぶ大きくなっていたのだから、抗がん剤治療というのは実施でしょうけど、そのあと手術をしていたのかも。

手術の成功率はあとで聞くと50%だったらしいので、リスクはなかなか高いかなと。現在の自分なら、命がかからない条件なら50%は勝負だと思って、賭けますが、命がかかるとおそらく賭けれない。ほかの選択肢があるなら、その選択肢に頼ってしまいますから。

ただ、地元の病院で治療していたら、そのあと通院の定期診断はどうしたんだろうな?という疑問があります。10年以上、病院に定期的に通院して、検査して再発していないのを確認してというのを続けてきましたが、通院のたびに地元に戻ってたのかな?それとも、もとの病院にもどって通院したのかもしれません。

 

いま思うと、この選択肢が地元というものに対する愛着をある意味振り切ったのかもしれません。いいのかどうかわからないですけど。

地元で治療していたらどうだったんだろうなぁ。それはそれで興味はあるけれども、自分の選んだ道だから後悔はないです。ただ、想像のつかないことだからこそ、興味がわいてしまいます。

 

この選択肢以外に戻りたいというのはあるけれど、その先どうなったんだろう?というのはある程度予測がつきます。就職先を悩んだときに、今のところか、別のところか?とか。仕事をしている姿とかが想像できるので、それはそれでいいのかなと思いますし。

 

一度きりの人生なんだから、思うがままに生きて、悔いがないように生きていくのが楽しいのかもしれません。