〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術/岩崎 秀雄 ~ゴールははるか先なんだろうなぁ~
生命ってなんだろう。
それに近づいていくためのアプローチが生化学。
生化学は、文字通り生物に関する科学的アプローチ一般を意味します。
この目的と言うのが、生命が何かを解明していくこと。その行く先にあるのが生命を作るということ。
生命がどのような存在なのか、どのようにして生き物らしい振る舞いをするのか、その見取り図(設計図)を把握しようとする試みが、自然科学としての生命科学の本流であることは間違いありません。
ただ、生命を作るという目標。漠然としすぎているなと。
ゴールって漠然としていると、大概ろくなことがないというか。明確なものを作るというのが難しい。
ボトムアップ型の人工細胞や人工生命については、「どこまでつくれば細胞あるいは生命と認めるのか」が必ずしも自明ではありません。そこで、「万人が認める(人工)細胞」「万人が認める(人工)生命」をつくることはできるのか、と考えてみましょう。
「細胞を創る」研究会でこの話をしたとき、僕たちの共通認識は、万人を納得させるものはできず、数割の人たちが「これなら細胞と認めてもいいんじゃなかろうか」と思い、それ以外は「これは細胞は言えないだろう」という状態がずっと続くだろう、でも、だんだんと納得する割合が漸近的に増えていくようになるだろう、ということでした。
このゴールを定義するときには、客観的にデータに基づいて作らないといけない。
ただ、人間であるがゆえに、自らと同じものを一から作るとなると、なかなかの抵抗感がでてくるものと考えられます。
昨今のAIの開発が進んでいますが、結局は同じことが起こっていくんだろうなと思いますし。。。
「生命」は自らを含むがゆえに、完璧に客観的にとらえなおすことを拒む存在でもあり、常に関心を持ち続けざるを得ない対象です。生命科学やバイオテクノロジーはそのための1つの(あるいは複数の)方向性を示すものです。それは今なお道の、人間や自然をめぐって常に流動的で社会的で思想的で歴史的な、要するに人間的な営みにほかなりません。
こう読んでいくと、生命を作るということは単純なようでいて単純ではない。モノづくりという観点から考えるとほぼ同じような感じがするのですが、客観的にとらえられるかどうかの違いというか差分が大きすぎる。
この自分たちを客観的にとらえるというか不明なブラックボックスがある状態で物事を考えていくというのはなかなか難しいところだなと。
そんなことをふと思わされます。
うーん、今回は引用が多すぎる気がしますが、どうにも話をつくりづらい。。。
〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術 (講談社現代新書)
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