Otra célula del cerebro

気が向くままにだらだらと書いていきます。

お題を見て、自分の過去を振り返ってみました。

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

 

自分の人生を振り返って、記憶に残っているのは二日ありますね。

 

1日目は、病気が判明した日。

2日目は、無事に病気の完治が告げられた日。

 

1日目は、大学の1年生、しかも希望にあふれるときに、まさかまさかの大病発覚。そして、そこからの治療が激動というか個人的に壮絶だった。

2日目は、その病気を無事に完治といわれたとき。ずっと長く付き合っていくものと思ってましたが、そこから解放されたのがうれしかった。

 

当時のことを思い出しながら、つらつらと書いてみます。

 

 病気が判明した日。きっかけは大学入学時の健康診断を受けてから1週間後。当時いた下宿先に大学から電話。なんだろうと思って出てみると、大学の保健室から。健康診断の結果で伝えたいことがあるか、急ぎ病院に来いとのこと。

 なんだろうと思って、大学の保健室に行くと、いきなり健康診断の結果について伝えられました。

「健康診断のX線の結果を見ると、胸に影がある。詳細に調べるために、大学病院の紹介状を書くから、病院にいってほしい」

 当時の自分は、胸に影があると言われても、何のことかさっぱり。まぁ、大したことないだろうと思って、1週間後に病院にいくと、健康診断の結果をもとに詳細の検査を受けてほしいといわれ、血液検査とX線CT(造影)の予約を入れられました。

 結果は、胸の影は縦隔に大きな腫瘍(こぶし大くらい)。腫瘍マーカーが低く、がんかどうかはわからない。ということでした。

 そのため、詳細検査ということで、MRIや骨シンチを受けて、最後に検査入院。全身麻酔をうって、生検で腫瘍の一部を取り出して調査。

 このあと、検査結果がでるまで一度退院し、1週間後に検査結果がでました。がん化はしていないものの、大きすぎるため、今後大きくなると心臓を圧迫してしまうため、すぐ治療が必要との診断。

 そこで、再度すぐ入院をして、ここから治療が始まりました。

 当初の予定は、そのまま手術をして取り出せればということで、1カ月程度の入院でした。なので、大学は休学せずに、治療を終えたら復帰すればいいと思って、そのままで。

 そして、治療方針をいわれたとき、いきなり抗がん剤治療をするとのこと。まずは3クール打ってサイズを小さくしたのち、手術して取り出す。そういう治療方針でした。当時の記憶をたどると、1クール3週間。最初の1週目に抗がん剤をうった後、2週間で回復。それを3回。

 この計画を聞いたのち、どう考えても、大学にそのままいてもいてもなと思って、担当教官に相談。1年間休学をすることに。なお、この担当教官、最後の年。面倒なことになって申し訳ない気持ちで満載です。

 治療がはじまってから、約5か月に及ぶ長い戦いが始まります。治療入院したのが5月末。抗がん剤治療開始は、6月~7月くらいにかけて2か月くらい。そこまで食事が食べれない状態になることもなく、ごはんをもくもくと食べれる状態でした。ただ、3回目はさすがに無理でほとんど食べれなかった。打ち終わった後、無性に味の濃いものを食べたくなって、カップ焼きそばを食べたら、吐いたという記憶があります。

 抗がん剤が非常によく効いていたので、腫瘍マーカーも正常値に。そして、こぶし大のサイズの主要がゴルフボール大のサイズに。ただ、そこから動かない。

 そのあと8月の頭に終了して、手術となるはずだったのですが、なぜか1か月くらいさらに放置。本当に放置。ただ、検査だけはちょくちょく受けてました。PETを受けたりして腫瘍の状況をみたり、X線CTを受けたり。そういや、抗がん剤の前に、幹細胞を抜き取る治療をしてた記憶があります。自己輸血をするためだったのかな?おそらく抗がん剤治療で一時的に幹細胞が減った時にいれるのを想定していたものと思われます。

 9月に入ってから、ようやく治療方針が決定。手術をせずに、再度抗がん剤を打つとのこと。かなり強いものを使うとのことで、無菌室へ移動。

 最後のは非常にきつかった。3週間のクールのうち、3日、さらに隔日でしか抗がん剤をうってないのに、あっという間にぼろぼろに。2日目には気持ち悪いわ、最悪でした。様子を見に来た家族からは、「病気を治しているのか、病気にしているのかわからん」というコメントも。

 ただ、耐えて耐えて無事に10月末に無事に退院。大学は1年間休学なので、家でのんびり体力を戻すとともに、運転免許をとったりして過ごしてました。

 

 退院してしばらくしてから、知ったことなのですが、非常に珍しい病気だったようです。当時で病院で数例目レベルだったようで・・・。道理で入院手続きとかすごい速さだったのかも。

 あと、手術をしなかったのは、成功確率が半々だったそうです。そして、治療せずにいたら、余命半年。

 もし仮に、大学に入れずに浪人をしていたら、そのまま死んでいたのかもしれない。そう思うと、ほんのわずかな差で命を拾えたと思えば、幸せなのかもしれない。そう思ってます。

 ただ、大学に入った理由である、行きたかった専門に進めなかった。これは休学すると必然的に残っている専門になるようで、それ先にいってよーって気がしました。これだけは大学にいった理由をなくしてしまったのが痛かったかなぁ。ただ、このときの判断で進んだ道で、今の会社に入る道がつながるのだから、不思議な気がしてます。

 

 それから20年、年に1回病院に通って、X線CT(造影剤)と血液検査を受けてました。途中、再発騒ぎが2回ほどありましたが、そのたびにPETをうけたり再検査とかを受けて、再発ではないという結論。

 20年たって、大学に復帰して、なんとか今の会社に紛れ込んだりして、生きながらえておりました。その間、主治医が3回ほど変わった後、新しい主治医が「この病気、さすがに再発もしそうもないので、完治ですね。もう来年の予約はいれないですよ」と言われ、無事に通院生活から解放。

 この最後の日、ようやく20年前からとらわれてきたことから解放されたという解放感。

 その時書いた記事がこちら。

matypoyo.hatenablog.com

 同じ病気になることはないでしょうが、メタボとか生活習慣病になる可能性はあるのですから、そこはずっと解放された気分のまま過ごすのではなく、健康に十分に気を使って生きていくのだと思ってます。

 

 なんか普段よりはるかに長々と書いた気がします。

 当時の写真を探してみましたが、残ってないですね。なんか残念。まぁ、デジカメとかもなかった時代だからなぁ。。。

 

 うーん、書いてて思ったけど、あの治療の日々、もう2度と味わいたくない。やはり、健康には十分気を付けて生きていこうと思います。まずは体重を落とさねば。。。