Otra célula del cerebro

気が向くままにだらだらと書いていきます。

歴史という教養/片山杜秀 ~歴史は繰り返すというけども、その通りになることは少ない。~

歴史は繰りかえす。だから、歴史を学べと書かれていることをよく見かけます。

 

ただ、実際に歴史どおりになることもなく、微妙にずれていって、結果はあれ?違う。。。と思うことも。

ただ、そのときのことをどう考えるかなのかな?とか思っていたりしたのですが。。。そこに対する回答がこちら。

歴史を知っても先が見通せるわけではない。そっくりそのまま繰り返すということはありえない。なぜなら、この世に登場人物とそれをとりまく諸条件がまったく一緒になることはありえないからです。

~中略~

でも似たことは起きる。その似たこととは歴史的順序の中で把握されなければなりません。

 歴史的な背景をきちんと分析して、どこが現在の置かれている状況と違うのか?というのを解析していく。そうすることで、その違いがあるからこそ、起こりうることを想像していくことが必要となる。

いくら歴史を勉強しても、経験か想像力か両方かに豊かさがないと、おそらく無駄です。見たことがないが見たように思える。いろいろな見たことのないものが見たようにいきいきと動く。内に入ってくる。過去と現在と未来が似たものとして重なってくる。そのためのキャパシティやポシビリティは、経験と想像力のフィールドをどれだけ持っているかに比例します。

単に歴史を学んでも知識としてもっていても、役に立たない。そこから違いは何か、どう転ぶのかというのも考えながら取り組めるかどうかが重要となる。そのためにも、可能な限りの選択肢を想像していく力が必要となる。想像力も経験があったほうがより精度をあげていくことができる。

 

歴史の中で疑問だったのが、復古主義がどうしてでてきたのかな?と思ってたのですが、それがこちらなんですね。 

不安と希望に引き裂かれた未来にさらされ続け、保ち守るものもじゅうぶんにない人々は、しばしば復古主義を選ぶものです。

復古の対象は、過去の事実ですから、ほんとうにあったわけです。「温故」には手ごたえがある。それが再現できると気休めにも思えれば、何が起きるかわからない未来に対する危うい感情は軽減されます。

 不安というものから逃れるのに、昔はよかった、あの時代に帰りたいということなのかなと。そう思うと、最近のバブルのころはよかったという感じがでてきたときは、未来に対して不安を感じているのだなと。

新しいことが起きるワクワクのある未来よりも、安心のできる過去に経験したところがあれば、そちらに落ち着くということですかね。

そういう風に考えると、歴史を見る目も少し変わっていきそうです。 

歴史という教養 (河出新書)

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