藤原氏―権力中枢の一族/倉本 一宏 ~まさしく日本の主役。。。~
帯に記載されている次の一言。
日本史の 真の”主役”
読んでの感想は、この言葉通りだなと。
天皇家以外で、藤原氏ほど、姿形を変えながら、日本の政治に関与し続けたものはないといってもいいのではないかなと。
個人的イメージとしては、藤原氏は乙巳の変(645)から承久の乱(1221)の間で日本の政治に影響を与え、そして、武家の登場で徐々に政治の表舞台から消えていったという認識でした。
乙巳の変から、現代まで巧妙に日本の統治機構に入り込み、そして、それを続けていった。その中で天皇家と徐々に一体化という道筋をたてていった。
天皇家と、藤原家の関係が強固になっていくのが、血のつながりを入れていき、摂関政治につなげていく中で、天皇系と藤原家が一体化していくことで、ながらく続いていく。
そうなることで、日本の統治は、天皇家と藤原家特に北家が共同運営をしていたと考えたほうがいい気がします。
そして、その形の完成が藤原道長の時代であったと。。。
そこからは、徐々にというよりも一気に関係性が崩れ始め、院政が始まっていく。
そして、武家の世に。武家の世になっても、天皇家と一体化が進んでいくとともに、武家社会にも入り込んでいく。
そう思うと、日本全国いたるところで藤の花が咲き乱れていっていったんだなと。そう思わされてなりません。
ただ、歴史の名前上、名前がでてこないだけで、藤原氏であっても、名前が変わっていっていたりするのもありますから、なかなか気づきにくいところもあります。
六角氏とかも藤原氏の流れとか。。。一条家あたりは有名なので知ってはいましたが。。。思ったより、奥深い。
それにしても、藤原家の家名である藤について白居易がいっている言葉が興味深い。
藤というものは自ら単独で生きられず、他の樹に絡みつき、その樹を枯らしてしまう。君の県政を恃む諛佞(ゆねい)の徒、あるいは妖婦人のごときものである。早く除去するに越したことはない、というのである。
藤原氏は主である天皇家を枯らすことはなく、共存する形になっていったと思うと、面白いなと。。。
それにしても、藤原氏が、徐々に蘇我氏を取り込んでいっているのも面白いなと。。。
ただ、歴史的に非常に長く、内容も難しいので、もうちょっとじっくり読まないと理解が進まないのかも。