承久の乱というと、武士に政権を奪われつつあったのを乾坤一擲で朝廷が戦いを挑んだものというふうに解釈をしていましたが、実際には違ったようです。
実際には、承久の乱がもたらしものは、朝廷の権威の失墜。承久の乱後にだされた院宣が次の内容になっています。
- もう政務には口出ししない。
- これから武士たちを出仕させない。また貴族でも、家業をつがず武芸の稽古をしている物は朝廷に出仕させない。
つまり、この院宣は、完全降伏の文書であり、武力放棄を宣言しているのです。私はこの文書こそ、承久の乱の歴史的意義を最も端的に表すものだと考えます。
承久の乱以前は、朝廷も武力をもつことができていたが、承久の乱後は武力をもつことができなくなった。
武力を失った朝廷はどうしたか?権威だけあっても、それを従えさせる力がなくなうと意味がなく、存在価値が下がっていく。
そこで、雑訴の興行や人材の抜擢をメインにしていくとした。つまりサービスを提供することで、朝廷の価値を保とうとした。
そのため、訴訟でもめた場合に、武力が必要になったら幕府に頼る必要がでてきた。もともと京都には自社勢力が強いし、そこには僧兵が多くいるわけですから。
と考えると、この承久の乱によって、朝廷→武家政権へと権力が移動しているというわけです。
そう考えると、朝廷が武家の時代にも残っていたというのも分かる気がします。結局権威をもっていても、武力を有していないわけですから、うまく活用すれば権威付けをすることができる。となると、この権威をもつというところで朝廷を奪い合うという。。。
そう思うと、権力を手放したが故に生き残ったともいえるのかなと。
ついつい自分が学んだときには、幕府が開かれたら権力が移行したものと思ってましたが、そういうわけではなく、その前にいろいろと暗闘があったうえで、承久の乱で決まったということか。。。
そう思うと、歴史って面白いな。。。